■Time Machine 1977-1986 第1回 1977年1月

 1977年1月は、世界的に大きなターニング・ポイントとなる月だった。1月3日、アップル・コンピューターが正式に法人化され、同月、シカゴで開催されたコンシューマー・エレクトロニクス・ショウで世界初のオールインワン・タイプの家庭用コンピューターのデモンストレーションが行われたのだ。それまで専門の技術者でなければ扱うことができなかったコンピューターを、画面、キーボード、メモリ、CPUなどを一体化し、誰もが家や職場で扱えるようにしたものだった。今もバソコン(パーソナル・コンピューター)と呼ばれ、普通に使われているコンピューターの始まりの月だったと言える。
 コンピューターに技術革新の波が押し寄せようとしている中、ミュージック・シーンでも大きな波が訪れていた。前76年、大手レーベルのEMIと契約したセックス・ピストルズは、11月、シングル「アナーキー・イン・ザ・U.K.」でデビューを飾るが、テレビで放送禁止用語を連発し、77年1月にはEMIを解雇されてしまった。彼らはすぐにヴァージン・レコードと契約し、シングル「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」をリリースし、イギリスでのパンク・ロックを象徴するバンドとして語られるようになる。しかしこの時点ではまだイギリスのパンク・シーンは始まったばかりだった。
 アメリカではひと足早くこのシーンは盛り上がりを見せていて、74〜76年にニューヨークでパティ・スミスやニューヨーク・ドールズ、テレヴィジョンといったアーティストが出現し、ニューヨーク・パンク・シーンを形成しようとしていた。そんなニューヨーク・パンク・シーンに現れたもう一つのグループが、ラモーンズだ。メンバー全員がラモーン姓を名乗るラモーズは、76年4月23日、セルフ・タイトル・アルバム(邦題 : ラモーンズの激情)でデビューを飾った。彼らがデビュー作から1年を待たずに77年1月10日にリリースしたのが、セカンド・アルバムとなる『リーヴ・ホーム』(Sire / SH7258)だ。76年10月にニューヨークのサンドラゴン・スタジオで、ドラムスのトミー・ラモーンにトニー・ボンジョヴィを共同プロデューサーに迎えて制作されたこのアルバムは、しっかりとしたプロダクション・ワークが施され、疾走感に満ちたポップなロックンロール・ナンバー満載で、デビュー作よりも洗練された内容が前作以上に高い評価を受けた。しかし評論家には高評価だったものの、全米148位止まりで商業的には成功には至っていない。ラモーンズが成功を手にするのは、77年5月に発売されシングル・ヒットとなった「シーナはパンク・ロッカー」が収録された次作『ロケット・トゥ・ロシア』まで待たなくてはならなかった。

 スピード感があり、若者の気持ちを捉えたプリミティヴなパンク・ロックが勢いを増す中、70年代前半に大きな成功を手にしていたプログレッシヴ・ロックは重厚長大で難解ととらえられ失速しつつあった。そんな状況の中でも高い人気を維持していたのがピンク・フロイドだった。73年3月にリリースしたアルバム『狂気』は想像を超えるロングセラーとなり、75年9月に発売した『炎〜あなたがここにいてほしい』も初の全英・全米1位を獲得する大ヒットとなった。そんなピンク・フロイドが、77年1月23日にリリースしたのが通算10作目となるアルバム『アニマルズ』(Harvest / SHVL 815)で、ジョージ・オーウェルの小説「動物農場」から着想を得、エリート・ビジネスマンを犬、資本家を豚、労働者を羊に喩えた資本主義を批判するコンセプト・アルバム。5曲の長尺な楽曲で構成された内容だったものの、全英2位・全米3位のヒットを記録した。

 ロンドンにあるバタシー発電所の上空に巨大な豚の風船を飛ばした印象的なアルバム・ジャケットはロジャー・ウォーターズが発案し、長くピンク・フロイドのカヴァー・デザインを手がけてきたストーム・トーガソンが実現したもので、数あるピンク・フロイド作品の中でも強いイメージを残す一枚だ。しかしこの時期のグループ内の雰囲気は最悪で、リック・ライトは結婚に問題を抱え、デイヴ・ギルモアは育児で忙しく、作品に集中することができなかったこともあり、ロジャー・ウォーターズがグループの主導権を握るようになっていく。アルバム発表後、彼らは“イン・ザ・フレッシュ”ツアーをスタートさせ、こちらも大成功を納めるものの、ウォーターズは一人で会場を往復するようになりメンバー間の軋轢はますます深まっていった。とはいえ、本作がパンク・ロックの勢いにシーンの片隅に追いやられようとしていたプログレッシヴ・ロックが一矢報いた作品だったことは間違いない。
 パンク・ロックがシーンを席巻する中、あえて実験的な方向性へと向かったアーティストがデヴィッド・ボウイだった。75年発売の『ヤング・アメリカンズ』でソウル色の強い作品を作ったボウイは、続く『ステイション・トゥ・ステイション』でもブルー・アイド・ソウル路線でそれを引き継いだ。デヴィッド・ボウイが77年1月14日にリリースした通算11作目となるアルバムが『ロウ』(RCA / Victor PL 12030)だ。米ロサンゼルスで長年薬物に溺れていたボウイは、76年、友人のイギー・ポップとフランスに渡り薬物や酒との縁を絶とうとした。彼の地でブライアン・イーノと出会った彼は、プロデューサーのトニー・ヴィスコンティとともに、フランスのエローヴィルにあるシャトー・エルヴィルでレコーディングをスタートさせた。当時彼がよく聴いていたというタンジェリン・ドリームやクラフト・ワークなどのジャーマン・ロックから影響を受け、アルバム後半はインストゥルメンタルという実験的な内容となっている。最終的にアルバムはボウイとイギーが移り住んだ西ドイツのベルリンにあるハンザ・スタジオで仕上げられていて、その後ボウイが発表する2枚のアルバムとともに“ベルリン三部作”と呼ばれるようになる。商業的にも全英2位・全米11位と成功を収めている。
 77年1月18日には、ジェントル・ジャイアントの初の、そして唯一の公式なライヴ・アルバム『プレイング・ザ・フール〜ライヴ』(Chrysalis / CTY 1133)がリリースされている。メンバー間で楽器を持ち替えたり、複雑なコーラスワークを行うなど、ライヴとは思えないほどの高いテクニックが話題となった。

 同年1月には、ルネッサンの7枚目アルバム『ノヴェラ』(Warner Bros. / K56422)がリリースされているが、本作は英レーベルBTMの倒産により、アメリカで先行発売され、イギリスでは数ヶ月遅れの8月になってようやくワーナーから発売された。その他にもアメリカではサンタナの『フェスティバル』(Columbia / PC 34423)、ジャニス・イアンのヒット・ナンバー「ウィル・ユー・ダンス」収録の『奇跡の街(Miracle Row)』(Columbia / PC 34440)、ジョーン・ジェットが在籍していたことで知られるランナウェイズのセカンド・アルバム『クイーン・オブ・ノイズ』(Mercury / SRM 1-1126)などがリリースされている。

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